檜山茶の歴史


檜山茶は享保15年頃、多賀谷21代当主、峰経(みねつね)の時代に京都宇治より茶の実をもたらし自家用茶園を作ったのが始まりとされています。

 峰経は享保14年本藩の国相となり、17年間その要職にあり在職中、京都の宇治より茶の実を求めて、高山の山麓の畑に植裁されたと伝えられています。(現在地宇茶園)

 その後100年を経た天保4~5年以降の大凶作による知行の借上により、薄給武士の家内興行の一端として当時の家老、石川官太夫によって奨励され、最盛期には10hにも達し宇治から製茶師を招いてその指導を受け、檜山茶は名声を博したようですが、時代の変遷により武士は住み慣れた土地を離れる事になり明治以降は檜山茶を守るために大変難儀した記事が散見されます。

 また、第二次世界大戦中の食糧難にイモや大小豆畑と茶樹は掘換えされ、戦後は経済的に採算の取れない作物として杉が植えられ、茶園の荒廃は特に進んでいきました。

 国立民族学博物館の守屋毅助教授(当時)は「檜山茶は日本の北限の茶であるだけでなく、世界で最も北で栽培されているお茶である。檜山茶は茶業地北進の記念碑だとも言える。」と述べられています。